- Posted by ririse taki (@riri1019)
- 2011.05.31
- Column
5月5日。こどもの日。こども心を忘れていない人だけが参加を許された、writtenafterwardsの2011SSのショー。ウェブを見渡しみると、既に様々なところで議論、批評されており、評価する声も上がる一方、批判する声も多々見られる。
新しい服が全く登場しないファッションショー。あるのは観客の私たちが着ている衣服だけで、観客がランウェイを歩くことでコレクションが作られていく。しかも、その衣服は前もって「forever fashion」「未来の服」というドレスコードが設けられたもの。
「未来の服」とはどのようなものだろうか。私自身、この問いかけに対する効果的な答えを発見できなかった。「未来にも自分が着ていたい服」という答えでお茶を濁した。
ほかの来場者を見ても、もちろん、強く「未来」を意識しているような人もいたけれども、いつも通りのファッションのなかで、自分なりの「未来」を表現しようとしている人のほうが多かったように思う。
わたしたちが日々選んでいる服が、「未来の服」だということは、普段はあまり意識しないことだが、少し考えてみると当たり前のことではある。
特に東京のファッションは、西洋のようにコレクション文化が色濃いわけでなく、むしろストリート的な感覚に支えられてきている部分が大きい。ランウェイよりストリートによって「未来の服」は作られている、と言っても過言ではないだろう。
そしてストリートを支えているものは、「装う」ことへの飽くなき欲望である。観客が思い思いの「未来の服」でランウェイを歩く姿は、このファッションの根源的な欲望を強烈に感じさせるものだった。それは、着ること、見ること、見られることの楽しさを感じさせるものではあったが、普段はあまり強く意識しない、欲望を人目に晒すことに対する不安感、羞恥心をも感じさせた。
山本耀司は、「人生を選ぶような覚悟を持ってジャケットを選んで欲しい」と繰り返し述べているが、観客にランウェイを歩かせるという行為は、「装う」ことを欲望することへの覚悟の有無を問われているのではないか、とすら思えた。「未来の服」とは、その覚悟が無ければ着られないもの、作っていけないもののはずだ。
観るものと観られるものとの反転は、ファッションショーという形態への疑問を鋭く投げかけるものでもあった。
観客がランウェイを歩き、以前のコレクションではランウェイ上に居た「服の神様」がそれを観るという状況は、メディアやファッションを取り巻く変化を考慮せず、無意識、無批判にランウェイショーを継続させ、硬直したファッションシステムを維持させていくことへの、風刺とユーモアの効いた批判と捉えられた。旧来のランウェイショーのあり方が、果たして「ファッション」にとって最適な方法なのか、服を見せることと「ファッション」であることの相関関係は何処にあるのか、深く突き詰める機会を与えてくれるものだった。
ファッションデザイナーの仕事をものづくりだ、と考える人にとって、このリトゥンのショーはあり得ないものだっただろう。しかし、デザイナーの仕事は、ものづくりだけでなく、トレンドや話題性、シーンなど、「ファッション」という事象を創り上げるものでもある。
リトゥンの仕事は、今までも今回も、「ファッション」という事象を創る、という難問に真っ向から立ち向かおうとしている。服だけではない「ファッション」をどう捉え、これから先「ファッション」という事象をどのように創っていくのか。writtenafterwardsの活動を注意深く見守っていくと同時に、「未来の服」をあの場で着用していた私たち自身も、真摯に考えていく必要があるだろう。
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